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第21号

                                                   天瀬裕康
乾信一郎と上塚一族

 前回ご登場頂いた上塚尚孝・石匠館館長が確かな人として推奨されたのは、若き日の信一郎(上塚貞雄)がお世話になった上塚司代議士の孫、上塚芳郎・東京女子医科大学教授であった。
 さっそく連絡を取って、学校が休みに入った年末の二十九日(金)にお会いすることになった。  
 この日は家を四時半に出て、広島六時始発の「のぞみ」六〇号で上京。小雪混じりの寒い朝で、関が原あたりは雪だったが、静岡あたりから天気は回復、富士山が綺麗だった。
 駆け足ながら、今回は乾信一郎の身近な人からの証言をもとに、現存の人へご迷惑のかからぬ範囲の報告をさせて頂こう。


 大学病院と教授室
 東京女子医科大学は、地下鉄・都営大江戸線の若松河田で降りると、すぐ目の前に聳えている。
 その総合外来センターに着いたら教授室へ連絡する、という手筈になっており、受付から電話してもらうと、五分あまりで出て来られて、簡単に施設の説明や案内をしてくださった。
 このセンター自体が、もっとも近代化された施設として有名だ。たとえばここの図書室「からだ情報館」は、患者様やご家族、ご面会の方々から地域の方々にも開放されており、貸し出しはしないが、自由に読めるシステムになっている。
 この河田町キャンパスは、附属病院を含めた教育研究施設として、一二六〇〇〇平方メートルもあるそうだ。数字を並べてもピンとこないが、教授室は外来センターを出て道の向うにあったから、相当な広さだということは実感できる。
 たまたま私の大学時代の同級生がここの消化器外科の教授をしていた話も出たりして、かなり詳しいお話も聞くことができた。
信一郎は平成になって、八十歳を超えてからも、意欲的に仕事を続けていたが、ときに脈が乱れることもあった。頓死の危険もないではない。そこで人工ペースメーカーの植え込みをしたのだそうだ。
 芳郎先生は久留米医大でも講義をされるので、年一回は九州へ行かれるそうである。そのさいは熊本市で開業しておられる近い親戚にも立ち寄られるとのことであった。
 こうした話を聞きながら、地下鉄で新宿に出て、JRで羽村に向かったのである。


 武蔵野の一隅にて
 東京都の北西部、埼玉県の南、いまなお武蔵野の面影がところどころに残る羽村市――。
武蔵野という地名には、なんとなくロマンが感じられるが、その一隅にある老人ホームに、乾信一郎夫人の千代子さんは住んでおられた。
 千代子夫人(旧姓・岩田)は、大正元年十月十四日の生まれである。お会いしたときは九十五歳で、さすがに最近の出来事についての物忘れは著しかったが、昔のことは、よく憶えておられた。
 彼女の実家は、戦前、神田で津久土(つくど)軒という洋食屋をしていた。百人ほど入れる大きな店で、のちには牛込に移った。十二人兄弟で、養子縁組をした者も多かったようだ。私が訪れていた間にも、芳郎先生が親類縁者らしい人と電話で話して、千代子夫人に伝えたりしておられた。まずは恵まれた晩年と言えるだろう。
 彼女が乾信一郎と結婚したのは昭和八年五月のことだった。
 千代子は、信一郎の家庭の複雑な一面は、ある程度は知っていた。それは東京の、かなり自由な商家の家風からは想像できないような、田舎の旧家の重苦しい雰囲気であった。
 その体験の一つは、太平洋戦争勃発直前の昭和十五年のことだ。貞雄(信一郎)の母から、突然「キコクスル」という電報が舞い込み、横浜に停泊中の船内の食堂で、食事を共にしたのだった。
 やがて戦争。東京大空襲のさい、千代子は戦火の中を一命を賭して、「敬天寮の君子たち」の原稿を土中に埋めて守ったのである。(貞雄の町工場のあった杉並区は、数回の空襲を受けているが、昭和二十年五月二十四日から二十五日にかけての空襲で駄目押し的な大被害を蒙った。)
 貞雄が復員し帰ってきたのは、同年の八月である。そのとき千代子は、枯れ木のように細長い彼の腕の中で泣いた。
 実業之日本社の少女雑誌編集部から原稿依頼が来たのは、その年の内だった。七年ぶりの執筆生活だったが、苦しい生活は続いた。
 父の光雄は家督を弟に譲って渡米したのだから、貞雄も上塚家の財産を当てにしていたわけではないが、一九四九年のGHQの指令による農地解放は、熊本の上塚一族に大きく影響したに違いない。

 
 乾信一郎のエピソード 
 千代子夫人のお部屋には、若いころの乾信一郎の写真が飾ってある。『新編現代日本文学全集 乾信一郎集』にも載っている写真だ。
 若い頃はみな眼鏡をかけている。老後は眼鏡のない写真もあるから、近眼だったのであろう。
 アルコールは駄目だが、ヘビー・スモーカーで、缶入五〇本のエアシップを好んで吸っていた。
 猫や犬はもとより小鳥まで、すべての生き物を好み愛した。それは多くの著書に反映している。
何回か転居しており、神田明神の近くにいたときには、大きなザボンの生る木があったし、九官鳥もいた。夫人はよく餌を買いに行ったものだ。
 乾信一郎が住んでいた最後の家は、文京区本駒込四―二九―三で、老衰の身は近医に診てもらっていたが、風邪から肺炎になり呼吸不全を起こしたため、八王子の病院に入院し、ここで死亡した。
 以前のペースメーカーの植え込みのこともあり、心肺の異常はあったと思われるが、九十六歳という高齢での死亡であるから、自然死に近い大往生だった、と解釈してよかろう。
戦後から晩年にかけて、もっとも関係の深かったのは早川書房であり、乾の係りは菅野氏であった。
 信一郎の没後三年、高齢に達した千代子夫人も、徐々に一人の生活に不自由を感じるようになったので家を処分し、羽村の老人ホームに入ったのだ。
友人の手蔓で口を利き、世話をしたのも、上塚芳郎教授であった。


 重みのある系図 
 こうして、東京女子医科大学羽村市の老人ホームを大至急で廻り、夕方の「のぞみ」四七号に乗って広島着二一時一九分で帰ったのだから、いくらか粗雑な点がないでもない。
 メモを読み返すと、あやふやなところが若干みつかったが、一月十八日付けで、芳郎先生から系図を送って下さった。
 それは七代に亘る詳細な系図で、これによれば、光雄や司、したがって貞雄(乾信一郎)や芳郎教授は上の上塚家に属し、もう一方の下の上塚家の流れを汲む人たちの中に、昭逸という方がおられる。『日本医籍録』西日本版(平成三年五月、医学公論社)によれば、熊本市で外科を開業しておられる。過日、芳郎教授が話しておられた熊本の先生は、この方のことだろう。
 この下の上塚家の三代前には、周平という方がおられて、ブラジルで成功された。周平は一度帰国したが、のち再度ブラジルに渡り、その土地に大きく貢献した。彼には子どもがいなかったが、その兄の孫が昭逸先生である。
 どうやら上塚家には海外雄飛的な血が流れていて、貞雄の父・光雄のシアトル行きにも、そうした面があったのかもしれない。
宗教的には、上塚家は曹洞(そうとう)宗だが、貞雄自身は仏教にもキリスト教にも拘らなかった。それで亡骸は、富士山麓にある日本文芸家協会の墓で管理されることになった。ただし、熊本の郷里にも分骨されたという。
 これで人間乾信一郎の概観は掴めたようだ。あとは早川書房など出版社との繋がりだが、この調査には少し時間がかかりそうである。



(2007年2月4日)





★「時空外彷徨」第20号は、こちらをご覧下さい。
http://d.hatena.ne.jp/sinseinen/20061205