天瀬裕康
平成二十年四月二十九日から六月末日まで、熊本近代文学館で開催中の「横溝正史ミニ展」のチラシを受け取ったのは、五月十二日。
これには「金田一耕助誕生の頃〜乾信一郎への書簡から〜」という副題が付いている。さっそく見に行ったのは五月二十八日だった。
岡山時代の横溝正史については、本紙の第七号で僅かながら触れておいたが、熊本近代文学館から出ている「横溝正史ミニ展」のチラシを見たとき、この二つの市、或は県には、なにか共通した「おどろおどろ」したものがあるように思ったものだ。
かつて、大宅壮一マスコミ熟の秀才・評論家の草柳大蔵は、「熊本には文化的地熱ともいうべき黒々とした熱っぽさがある」と言ったが、興味深い。
一方では神道をバックボーンに持つ神風連があり、他方では隠れキリシタンがいる。
乾信一郎が通った九州学院はルーテル系だが、カトリック系女子校としては、熊本信愛女学院高等学校や付属幼稚園がある。明治三十三年(一九〇〇)、幼きイエズス修道会による創立だ。戦後は、カトリック系のマリスト学園高等学校も設立された。地方都市としては多いほうだろう。
最初から道草を食ってしまったが、戦後の社会はどのような状況だったのだろうか?
ヨコセイ戦後を語る
終戦の年の年末、乾信一郎はもう文筆生活に戻っていたが、東京の食糧事情はよくなかった。昭和二十年十二月五日付で横溝は、こう書いている。
《及ばずながら大いに後援いたしますよ。
今の東京の生活は実にオモシロイものらしいです
ね。こんな時代に、大兄のやうな人が熊本へ帰る
手なんて絶対にありませんよ。まあセイゼイ頑張
って風刺小説の材料にでもしてください。扨、小生
ですが、どうやらまだ一二年は当地に根が生え
さうです。なにしろここにいるとなにも不自由が
ないからいけません。主食は申すまでもなく、
野菜、酒、・・この間まで、一番困っていた蛋白
質にも?徹パイ以来、高いのをガマンすれば、毎
日、口に入るやうになりました。只一つ困るのはタ
バコです。いろいろな木の葉を吸ってガマンしてゐ
ましたが、これも来年から、高級タバコとやらが出
るさうですから、解決がつくでせう。砂糖は、この
村で盛んに栽培してゐますし。・・とまあ、都会の飢
餓をよそにノンキなもんです。尤も、良心はサカン
に痛みますが。 本を焼かれたのはお困りでせう。
拙宅にはどういうわけか、昔の新青年が二冊づつあ
ります。(病中上諏訪と、吉祥字の両方へ送ってもら
っていたものらしい。)面倒だから、売ろう売ろうと
》
(以下、欠。改行は原則として原文のママ)
ちなみに乾もヘビースモーカーである。
このあと欄外に、塩に困ること、その闇値のことなどが記されている。
結局、乾は熊本に引き揚げることなく、東京で頑張り、地歩を築いてゆく。
本陣殺人事件の頃
金田一耕助が登場する「本陣殺人事件」(『宝石』昭和二十一年四〜十二月)連載のあと、横溝は乾に、こんなことを書き送っている。昭和二十二年六月二十三日付のものだ。(誤記・誤字かと思われる部分も、すべてママとした)
《拝啓、お手紙ありがとうございました。ケンケン
ガクガクの語論議まことに興味深く拝
読、もう一度バクギケして進ぜようかと思ひ
しも、一々、至極同感故、バクダンも投下
させざるうちに不発弾と相成り申候。
ことに、ああいふ探偵小説論では、これから出よう
とする若い作家の士気ソソーさせると
いふ御意見。これ殊に御同感にて、過日、
拙作「本陣」の合評会の節、江戸川さん
が予め、氏の評論をお送りくだすったうへ、
言ふことあらバ、申せとの事故、小生も、今
少し寛大でないと、若い作家は書き
にくからうと申せし次第。しかし、つら
つら翻って誰に(ソロソロバクゲキにかかり
ますゾ)そんなことで士気ソソーするやうな人は、
ことに士気ソソーせんでも、やっぱり駄》
(ちょっと中絶。このあたりは、江戸川乱歩『探偵小説四十年』(昭和三十六年七月、桃源社)の二二九、三五一、360頁等、参照されたし)
《ちに紙の事情がよくなるまで、一時保留、よく
なったら一時に出すとのとの事、まことに結構です
が、さて、それはいつの事にや。と考へると、些が
心細いしだい、三洋社の方でも、紙型とってあるさ
うで、御尤ものしだいなれど、将来、とはいへ、こ
っちもまるで版権とられちまった如く、自分で自分
の小説が自由にならぬといふのは、ちと不憫な話
と思ってゐます。問題は、火事泥的に出来
た本屋さん、小説でも出してみようかというや
うなでも、本屋さんで、三洋社があるかないかとい
うことになります。将来も本屋をつづけ
ていくつもりなら、三洋社もむろん出版して
くれるだろう。しかし、軍需景気で儲けた
金、出版でもして見ようかといふやうな本屋さんな
ら、世の中がおさまって、したがって紙事情がよく
なった頃には、出版なんて、をかあしく
って、と、どこかへ消えてしまひさうな気が
する。さうなると、小生はあの小説をいつまでも》
(後略)
第一回展のことなど
このあと、昭和六十三年一月五日から三月三十日まで開かれた「乾信一郎展」の資料、アルバムも見せていただいた。
平成十七年夏の展示は、以前の本紙でも紹介してあるが、この昭和六十三年のものは、少なくとも私にとっては「第一回展」である。
獅子文六(岩田豊雄)、伊馬春部(鵜平)、玉川一郎、海野十三らとの書簡もあったらしい。
乾は彼自身のことを「自分を人に見せたがらない性格」と言う。文通の多かったのは伊馬で、海野は戦後早く死んだので数は少ないが、横溝・海野・乾で「三角通信」なるものを作っていた。
岩田は雅号を牡丹亭(唐獅子より)と言い、乾はロシナンテをもじって、呂氏南亭とか露地南亭と称していた由である。
他にも同館にて、平成十九年七月二十日から九月十七日まで開催された「神風連の乱・西南戦争と文学」の資料もいただいた。
いろいろご厚誼を賜った河原畑 廣館長、鶴本市朗参事に心より御礼申し上げます。
吉備・肥の国ミステリー
ところで熊本県も岡山県も、明治新政府により、あるいは時の流れによって、地盤の下落が起こった地方ではなかっただろうか。
もともと熊本(市)は九州の中心だった。それがいつの間にか町人の町、博多に取って代わられた。
吉備の国、岡山も損をしたほうだ。廃藩置県の結果、途中で小田県というものが存在した時期もあったが、気付いてみると備前・備中・備後のうち、備後は広島県に入っていた。
大藩の名残があることは、明治政府にとって好ましくなかった、と云うことだろうか。
ともあれ熊本県立図書館所蔵の『新風連血涙史』を読むことができたのは、まことに幸いだった。日本は均質ではないのだ。
どこもここも新幹線の駅のように、同じ容貌をしてきたのでは面白くない。東京への一極集中と地方の均一化がすすめば、日本文化は崩壊するだろう。
金田一耕助の活躍する世界は、そうした面白くない世界へのアンチテーゼとして、成功したように思えたのである。
(2008年5月30日)
★「時空外彷徨」第21号は、こちらをご覧下さい。
http://d.hatena.ne.jp/sinseinen/20070204