Pub Antiquarian 『新青年』研究会のブログ

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第24号

                                                  天瀬裕康

    野田昌宏残照

 六月七日(土)、大坂の「ワッハ上方」演芸資料館から帰り、少し遅い晩酌をしていると、家内が、
野田昌宏さんが亡くなられたそうよ」
 と言って新聞を持ってくる。見ればたしかに、
 《野田昌宏(のだ・まさひろ)=元日本テレワー
ク社長、翻訳家、本名宏一郎(こういちろう)六
日、心不全のため大田区の病院で死去、74歳(中
略)一九五九年フジテレビ入社後、製作会社の日
本テレワーク設立に参加。「スター・ウォーズ
や「キャプテン・フューチャー」シリーズを翻訳
し、SF作家としても活躍…》と書いてある。
 家内は、野田さんが手掛けた幼児教育番組「ひらけ!ポンキッキ」のことを盛んに喋っていたが、私は別のことを考えていた――。
 私が現在地で開業するまえ、東京で開業するよう幾度も誘ってくれたのだ。私の開業二年後の昭和五十九年には、日本テレワーク社長になっていた。
 失礼な追悼になるかもしれないが、もし私が東京で開業していたら、あの肥満体はまだ生きていたかもしれない。あるいは、もっと早く死んでいたかもしれないが……。



   宏一郎と昌宏
 昭和八年生まれ、福岡市出身、学習院大学政経学部卒の野田宏一郎は、私より二歳若かったが、あらゆる点で私の先を走っていた。
 社会人としても、「科学創作クラブ」や「おめがクラブ」との距離、「SFマガジン」への登場年など、すべてにおいて前方にいたのである。
 初期の「SFマガジン」では本名の宏一郎を使っていた。初登場は、〈三周年記念増大号 日本作家特集!〉と銘打った通巻三九号(一九六三年二月)の「銀河帝国盛衰史」だ。四頁ものだが読み応え充分で、末尾に(筆者は宇宙塵同人、フジ・テレビ勤務)と付記してある。
 シリーズものとしての最初は、通巻四七号(一九六三年九月)から始まった「SF英雄群像・バック・ロジャース」である。これは十五回続いたあと、六八号(一九六五年五月)の「現代の英雄たち」が最終回となった。年月数と通巻号数にズレがあるように感じられる部分がときに生じるが、あいだに増刊号が入っているからだ。
 次は一ヶ月間をおいて、七〇号(同年七月)から「SF実験室」が始まる。これは多種・多方面の話題が次々と出て、延々と続く。終わったのは「SF解剖学のすすめ その12 落穂拾い」一二四号(一九六九年九月)だった。
 この間に単発物が入るから、野田宏一郎の名前は、いつも見ているような感じだったが、すぐさま一〇月(通巻一二五号)から「SF美術館」が始まる。第一回は「アスタウンディング一九五〇年」だが、このときは野田昌宏名義になっている。ところが目次では野田宏一郎のままである。
 通巻一二六号(一九六九年一〇月)は「秋の小説カーニバル」だが、野田さんは野田昌宏名義で「OH! WHEN THE MARTIANS GO MARCHIN’IN」を載せているが、今度は本文のところが宏一郎だ。
 次の一二七号(十一月)の「SF美術館?ヴァン・ドンゲン登場」では、また目次が宏一郎で本文が昌宏、一二九号も同様である。ちなみに、一般の美術館などにある同名の画家と、このSF画家とは別人だから、ご注意いただきたい。
 通巻一三〇号(一九七〇年二月)は創刊一〇周年記念特大号で野田さんは特別読物「グッド・オールド・ルナ」を書いているが、ここでは目次も本文も昌宏になっていた。やれやれ!

 
   私事で恐縮ですが
 昭和三十五年(一九六〇)二月に創刊された「SFマガジン」は、翌年二月、通巻一三号で東宝?と共催で「空想科学小説コンテスト」をおこなった。
 結果は一九号(一九六一年八月)に発表されたが入選はなく、佳作に山田好夫、眉村卓豊田有恒、努力賞に小松左京の名が見られる。
 第2回は一九六二年十二月号に発表。入選一・二席はなく、三席に小松左京半村良、佳作は筒井康隆、朝九郎、山田好夫、豊田有恒だった。
 これまでは読んでおればご機嫌だったのだが、この頃から欲が出て、自分でも書いてみたくなる。丁度その頃、「SFマガジン」四一号(一九六三年四月)に、第3回空想科学小説コンテストの募集が出たので、本名で応募する。三十一歳だった。
 審査は予定より長引いたが、五〇号の中間報告には名前が出ている。入選発表は五五号になった。このときは空想科学小説がSFになっている。それはどちらでもよいことだが、入選はなく、佳作一席は吉原忠男、二席は松崎真治、三席は永田実で、私の「幻想肢」は、なんとか奨励賞に残った。
 次いで一一三号(一九六八年一〇月)に「SF映画ストーリィ・コンテスト」の募集規定が発表され、一二〇号(一九六九年五月)に入選発表があった。このときの入選第一席は浜光年、二席が北上雅能、佳作の最初に私の「星の果て」があった。
 私の「SFマガジン」デビューは、一三八号(一九七〇年一〇月)の「ホモ・モンストローズス万歳!」
だったが、一三一号以後の野田さんはすでに昌宏名義で、連載ものを執筆中だったのである。
 ついでながら家内の渡辺玲子は、季刊「あ・の・と」の平成十三(二〇〇一)年春号に「二〇〇一年・マイ宇宙への旅」なる一文を書いている。 A・C・クラークの名作の題名を捩ったに違いない。
 内容は一九七〇年代に入った「スペースシャトル友の会」のことなどだが、NHK教育テレビの「宇宙を空想してきた人々」(講師・野田昌宏)にも触れている。新聞の訃報記事がすぐ目に入ったのは、こうした背景があったからだろう。



   野田さんの遺産「SFは絵なノダ」
 話を「SFマガジン」に戻すと、二二一号(一九七七年四月)からは、昌宏名義の「私をSFに狂わせた絵描きたち」という連載が始まり、二五四号(一九七九年十一月)からは「野田昌宏センス・オブ・ワンダーランド」が続く。
 以後、益々のご健筆。「野田昌宏の本 二〇〇X年度 豪華ラインアップ」式の年賀状が、社宅時代も医院時代もやって来る。どれだけの単行本が出たか分からないが、主軸は宇宙物だろう。
 たとえば「宇宙科学実用化の時代」なる副題の付いた『NASAからのスペシャル・レポート』(昭和六十年五月、河出書房新社)は、NASA関係では五冊目だが、面白いのはスペオペ(宇宙活劇)だ。
 一九八八年一〇月に早川書房から出版された『スペース・オペラの書き方』を読めば、スペオペのファンになる人も出るに違いない。
 それに野田さんには、人間的な魅力がある。SF大会の合宿に参加してみると、彼の部屋には若い連中がワンサと押しかけていたものだ。
 かくして野田昌宏には、宇宙大元帥といったふうな称号が奉られるし、昌宏はショウコウ(将校)と読むんだ、という噂も聞いたものだが、業績の中で特筆すべきは、SF画の分野だろう。
 湯浅篤志氏の話では、河出書房新社が「野田SFコレクション」として図説の「ロボット」(二〇〇〇年一一月)、「ロケット」(二〇〇一年八月)、「異星人」(二〇〇二年五月)を出しているという。
 廿一世紀のことを知らなくて、御免なさい。だが古い話を続けると、かつて野田さんによる「SFイラスト・ライブラリー」なるものがあった。
 雑誌の表紙等をカラースライドにしたもので、小人数の会員制頒布組織だった、と記憶している。 
 なにしろ三十年もの昔の品物なので、退色・劣化が進行中で、早晩、塵となるのは必定。CDにでも入れようかと思ったが、私には出来そうもない。 
 アメリカの版権等法的な問題は野田さんがクリアーしていたはずだし、研究・鑑賞の目的で複製し観覧するのなら、特に問題はあるまい。一種の追善供養といったところだろう。
 どなたか、お助けいただけるなら、現物をお貸しするので、チャレンジして頂けないだろうか。


 (二〇〇八年七月一日)






★「時空外彷徨」第23号は、こちらをご覧下さい。

http://d.hatena.ne.jp/sinseinen/20080610