天瀬裕康
乱歩における正常と異常――佐々木久子を巡って
アンケートが宿題を
だいぶん以前のことだが、『新青年』研究会の「『新青年』趣味」第三号(一九九三年一二月、発行者・湯浅篤志)が、アンケート「私と江戸川乱歩」の集計結果を載せたことがある。
その問一は〈乱歩との初めての出会い〉で、月並みながら、「小学生のころ、『少年探偵団』のあたり」と答えた。小学校一年生のときだったと思う。
問二は〈乱歩の好きなところ、嫌いなところ〉だ。好きなところとして「性格的には、(少々我儘)几帳面な部分」を挙げ、嫌いなところには、「自分を語り過ぎている。(探偵小説作家なら自分を語るな)」と答えている。括弧内の言葉の真意は、今では分かりかねるが、もしかしたら、伝統的な私小説に対する反発が混じっていたのかもしれない。
問三は〈乱歩が生きていたら尋ねたいこと〉で、これには次のように答えている。
《(昭和三十六年頃、乱歩六六歳のときのこと)片口安史がロールシャッハ・テストを行って、〈精神的には安定しており…(中略)いくらか同性愛的傾向が認められる(後略)〉とされていますが、乱歩先生は御自身はどのようにお感じですか?》
そのとき私は、乱歩の同性愛調査趣味は認めるものの、彼自身の同性愛傾向に関しては否定的だったが、その後、どうにも自信がぐらついた。
私が「『新青年』趣味」に登場させて頂いたのは第二号からで、このアンケートだけは渡辺晋の本名だが、日本ペンクラブはじめ文筆関係はすべて天瀬裕康の筆名を使ってきたので、ここでも天瀬裕康として話を続けさせて頂こう。
佐々木久子の証言
さて、特定の人に関する情報で、生前には話しにくいが、死後も時間が経ちすぎると記憶が定かでなくなってしまう、といった場合がある。
佐々木久子(一九二七・二・ 一〇〜二〇〇八・六・二八)についても、死後一年あまり経ったから、ここらで書いておかねばなるまい、というわけだ。
彼女は兄二人、妹一人の三番目に生まれ、三歳のときから酒を飲んだという、広島生まれの広島育ち。失恋して上京し、雑誌『酒』の編集長となり、同郷の作家・梶山季之や作詞家・石本美由起らと「広島カープを優勝させる会」を作ったことは有名だ。
著書多数で柳女の俳号を持つ俳人でもあり、校歌作製では石本との関係が深いが、文壇での交遊録はあまり伝わっていない。
一緒に飲み歩いたのは火野葦平、尾崎士郎、壇一雄、江戸川乱歩、角田喜久雄、丹羽文雄、川上徹太郎、吉田健一といったところだが、殊に葦平と乱歩の知遇を得た。『わたしの放浪記』(一九九五年三月、法藏館)では次のように記している。
《江戸川乱歩先生に、生まれてはじめて新橋や赤坂、柳橋などの超一流の料亭に連れて行かれ、女将さん、芸者さんたちの洗練された話術に大いに触発された(後略)》
このあとには、床の間の書画・置物などで眼識を養ったことが述べられており、文壇の正史に出てきても支障のない話だが、じつのところ私が確かめたいのは、彼女の次のような言葉なのだ。
「乱歩さんは(同性愛があるから)、どこへ一緒に行こうと(私・久子は)大丈夫でした」
たしかに私は、この手の言葉を読んだ記憶があるのに、どう探しても記事が出てこないのだ。
そうなると、どこかで私が聞いた話ということになるが、聞き間違い、記憶違い、悪くすれば捏造ということにもなりかねまい。
いずれにしても、信憑性は著しく低下するわけだが、ホモの問題、もう少し調べておこう。
『噂』と諸氏の分析
天瀬裕康の「乱歩 パトグラフィー」(「『新青年』趣味」第四号、一九九六年一月)は、乱歩文学を小児性と感応精神病的反応の二面から観たものだが、異常性愛からの掘り下げは不充分であった。
ところで、梶山季之責任編集の月刊『噂』第一巻第二号(昭和四六年九月)の座談会「男色まで実験した常識人」で探偵作家たちは、乱歩を倒錯者ではなく、予想以上の常識人だ、と断じている。戦前の陰気な乱歩とは一転し、戦後は、一族郎党を連れて飲み歩く俗物になっていたのだ。
第二巻第九号では、座談会「夜の男たちの生態」の司会をしているのだが、どうも衆道(男色)研究家といった感じで、ここでも変態性欲者という感じはしないのである。
また春原千秋は、『精神医学からみた現代作家』(昭和五四年七月、毎日新聞社)に収録された「江戸川乱歩」において、乱歩を、《耽美派の系譜で評価しなおすべきであろう》としている。
他方、中野久夫は「江戸川乱歩の心的世界}(「ユリイカ」第一一巻第五号、青土社、昭和五四年四月)において、乱歩は、
《サディズム、マゾヒズム、同性愛、ピグマリオニズム、覗き趣味、ユートピア願望などの妖しい雰囲気で読者を魅了しつくした》
と述べている。
さらに古川誠は、『国文学 解釈と鑑賞』(平成六年一二月)に載った「江戸川乱歩のひそかなる情熱 ―同性愛研究家としての乱歩」において、岩田準一と浜尾四郎の二人を衆道研究の師匠とし、日本の衆道文化とともに、古代ギリシャや欧米の同性愛に就いても興味を示している、と記した。
もちろん、同性愛研究者と同性愛者は別のものだし、なだ いなだ等のように小児性に比重を置いた論説もあるが、戦前の乱歩作品には、オナニストの夢のようなものも感じられるだろう。
学会とシンポジウム
立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターが設立されたのは、二〇〇六年六月である。
また、国際乱歩カンファレンス「江戸川乱歩とグローバル文化としてのモダニズム」が、立命館大学衣笠キャンパスで開かれたのは、二〇〇七年の一二月七日から九日までの三日間だった。乱歩は手の届かぬ高みに上がってしまいそうだ。
さらに昨年(二〇〇八年)一一月八日と九日に、広島安佐南区の広島修道大学において、クィア学会第一回大会が開催された。
この学際的なクィア研究は、正常/異常、男/女、異性愛/同性愛、セックス/ジェンダーといった二項対立の問い直しを図るものだ。この学会では、黒岩裕市の《「一種異様の人種」とセクシュアリティの表象――江戸川乱歩『一寸法師』を中心に》など、興味ある発表があって、乱歩における衆道研究も少し別の面から取り組む必要を感じたのだった。
そこで佐々木久子に話を戻すと、
「(久子が)ビジンでないから安全だった、というだけのことではないのか?」
という陰口もあるが、これは彼女のために反論しておきたい。なるほど彼女はエラが張って、いわゆる美人画的なマスクではないが、スリムでボーイッシュだったころはヘップバーンに似ていないでもなかったし、和服を着こなす点は立派である。
きやすく活字にすべきではないだろうが、乱歩は小児性や異常性欲を離れた熟年の感覚で、チャコ(久子)をコーチしたのではあるまいか?
どうも私には、乱歩の男色は本物ではなく、知的遊戯だったように思えるのだが、なおも研究の余地が残っているようだ。
(二〇〇九年一〇月一二日)
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