Pub Antiquarian 『新青年』研究会のブログ

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9月11日(土)に、9月例会が専修大学神田校舎で開かれました。

発表は、湯浅篤志さんの「大正期のカフェについて」でした。



湯浅篤志さん「大正期のカフェについて」

松崎天民は「カフエー行脚 日本全国カフエーところどころ」というエッセイを、『サンデー毎日』昭和3年6月15日「小説と講談」号に書きました。

それによると、日本の地方の町々にとって昭和3年の初夏にやっと「カフエー時代」を現出したといいます。逆に、都会であった東京、大阪、横浜、神戸、京都などは、「カフエー時代」を過ぎて「女給時代」に入った観があるということです。

明治の終わりに始まったカフェが都会の社会現象として問題視されたのは大正の中ごろですが、そのころ銀座にあったカフェ・ライオンは酒場とコーヒー店とランチを兼ねたお店として流行りました。食べ物本位で女給第2位のお店です。それに物足りない紳士は、その足でサッポロビール園の簾戸を押しに行きます。ここは純粋な酒場でしたが、女性たちも多くいました。しかし、テーブルの間を立ち働くだけです。さらに喉の渇きを覚えた彼は千疋屋の二階へ行き、紅茶を飲まずに壁に並んだ洋酒を飲み始めます。ここの女給たちは上品な声で、客の注文をコックに通しています。夜の12時過ぎまでいた彼は、静かな場所に行きたくなります。

それは赤坂にあるカフェーの二階でした。階下では若い女たちが蓄音機の周りを取り巻いて、行進曲と一緒に口笛を吹いています。そばにいる大学生らしい若者は、はしゃいでいます。彼は二階に上り、椅子に座りテーブルに足を乗せて休んでいると、そばに女性がやってきます。「今夜はゆっくり、話をしようか」と誘うと、やがて「もう火を落としますが……」といいます。

そうだ、浅草に行こう! ということで、浅草にいくのですが、しかし、浅草公園は寝静まっていて、神谷バーも山吹バーもサッポロビール・バーもチンヤ・バーも皆、戸を下していました。吉原の大門を行く手に控えている石川バーだけが開いていました。中には給仕女を困らせる客もいます。蓄音機から浪花節や流行り歌が聞こえてきます。そして、彼はその場で寝入ってしまいます。

これらのことは斎藤正雄「酒場の一夜」(大正8年)に書いてあったことです。

脚色はもちろんあると思いますが、このような夜の風俗が「カフェー」という場所で顕在化していったのが大正中期です。やがて食事やお酒を楽しむというよりも、女給目当てに通う楽しみを重点化した「女給時代」になっていきます。そのような人間の欲望を小説にした代表作の一つが、永井荷風の「つゆのあとさき」(昭和6年)といえるのではないでしょうか。