Pub Antiquarian 『新青年』研究会のブログ

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第26号

                                                  天瀬裕康

天災と人災、災害と文化
  
想定外(?)の展開
 暫定的に東北関東大震災と呼ばれた異変は、四週間経っても、まだ収まりそうにありません。
 この間、『新青年』研究会及び関連諸団体の皆様の中には、被害に遭われた方も少なくないように聞き及んでおり、心よりお見舞い申し上げます。
 じっさい、地震津波に関しては、それなりに復興の兆しが見えてきたものの、原発事故の影響はさらに拡がるかもしれないのです。
 すでに西日本でも、通常以上の放射性物質が検出されております。東電の説明では、すべてが「想定外」のように聞こえますが、それらを「想定内」のこととして、訓練されたグループを作っている国に比べると、なんたる差でしょうか。
 空中には、今回の事故で舞い上がった放射性物質が、地球上空を廻っていることでしょう。そこへ四月四日には、法律の五〇〇倍の汚染水を一万千五百トン海へ放出し始めたのです。これを一時的に止めることができても、さらなる危険状態の起こる可能性は少なくありません。
 だからといっても、多数の東電の社員を非難するつもりはないのです。現場の作業員は、それこそ命がけで頑張っているのですし、被曝した協力会社(下請け)の人たちのことを想うと、安全な場所にいて言い訳ばかりしている会社の幹部は、現場に行って責任ある指示を出してほしいのです。
 天瀬裕康は『闇よ、名乗れ』(二〇一〇、近代文芸社)の中で、科学文明の全面的否定を描きましたが、渡辺晋の本名で書いた『半世紀後の反核戦争』(一九九八、西日本文化出版)では、核戦争反対、原発容認の立場を採っています。今の時点ではどのように考えるべきでしょうか。それではしばらく、渡辺晋の足跡を辿ってみましょう。



放射線との関わり
 渡辺晋は、旧制中学2年の一九四五年八月六日から六日間、広島県安佐郡飯室村(現・広島市安佐北区)で救護・入市被爆で、第3号被爆者健康手帳(いわゆる原爆手帖)を取得しております。それを告白できたのは被爆してから半世紀後、天瀬裕康名義で書いた「異臭の六日間」(『広島文藝派』復刊第十一号、一九九六年九月)でした。
 次は間接的なものですが、一九五七年に岡山大学大学院に入ってすぐの頃、「日本における白血病の臨床統計(中四国地方)」という八二二例の調査に参加しました。白血病はどこにでも発生しますが、やはり広島は高率でした。原爆による被爆も他の被曝も、無害ではありえません。
 第三は大学院時代の後期、鳥取との県境に近い岡山県苫田郡上斉原村にあった、原子燃料公社人形峠事業所の診療所のことです.
 このウラン鉱山が開設されたのは、東海村で「原子の火」が灯った一九五七年八月二十七日でしたが、渡辺は前後三回、合計数ヵ月、アルバイトで診療所勤務をしたのです。国家試験は済ませ、医師免許も持っていましたから、臨床医の仕事をするのに問題はないのですが、その時は新婚早々だったので、多少気になりました。しかし、異常を起こすことはなく、若い社員たちの、未来のエネルギー問題を想う情熱には、胸をうたれたものです。
 ずっと後の一九八九年十月、渡辺はIPPNW(核戦争防止国際医師会議)に入会し、世界各地や国内の大会に参加しますが、原発との関わりを持ったのは、二〇〇〇年十月十四日に青森県医師会館で行なわれた日本支部の理事会でした。当時の金上幸夫青森県医師会長が、ことのほか熱心な反原発論者で、六ヶ所村の原子燃料再処理施設見学の便を図って下さり、たいへん勉強になりました。
 その他、作家詩人関係にも反核・反原発の思想を持つ人は多いので、目を転じてみましょう。



ある詩人、編集者への回想
 原爆詩人の峠三吉といえば、《ちちをかえせ ははをかえせ……》の詩で有名ですが、その研究者として詩人として、さらには年刊の『原爆と文学』誌の編集者でもあった増岡敏和氏が、昨年(二〇一〇年)七月二十八日に他界しました。
 縁あって、とでも言いましょうか、私が初めて同誌に寄稿したのは二〇〇〇年版、渡辺晋の本名で「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)地域会議について」を書いたのです。
 この組織については、前項でちょっと触れておりますが、この小論では、一九八一年に米国バージニア州のエアリーにおいて行われた第一回世界大会から始め、八七年にニュージーランドオークランドで開催された、最初のアジア太平洋地域会議に就き略記しています。その後の経過も簡単に述べたものですが、以後は創作を発表しております。
 すなわち二〇〇二年版には、「廃墟の残照」を載せてもらいました。これは、復興したエコノミック・アニマルの牙城のようなヒロシマを嫌う被爆患者と医者の話。二〇〇三年版にでた「ニューマン・カズンの紙碑」は、土曜評論の主筆で、原爆乙女や原爆孤児の救済に尽力したノーマン・カズンズ関連の物語。二〇〇四年版の「怪獣のいる寓話」は、日本のコイズミ首相、米大統領ブッシュ、英首相ブレアたちを揶揄したファンタジーです。
 編集者の増岡敏和氏は、いろいろアドバイスして下さいましたが、原発反対か容認かでは、少し意見の分かれる部分がありました。
 峠三吉の場合は、死亡が一九五三年三月十日で、日本の原発が始まるよりは以前ですから断定はできませんが、おそらく反原発の立場に立ったのではないでしょうか。
 統計をとったわけではありませんが、一般に、反原爆の芸術家・活動家の中には、反原発の立場をとる人が多いような気がします。そのほうが論旨もスッキリするのですが、実際問題としては、もはや核抜きの文明は考えにくいでしょう。
 一時的な節電には協力しても、すぐまた電気の無駄使いを始め、核のために人類が滅びるとしても、核エネルギーの利用を止めないでしょう。だとすれば、核による事故を防ぎ、起こっても被害を最小限に食い止められるよう、すぐ科学的対応がとれるような体制を作る必要があるに違いありません。
 いまは余計に、そのことが痛感されるのです。



日本ペンクラブヒロシマ
 二〇〇八年二月二十二日から二十五日まで、新宿の全労済ホールで、「災害と文化」をテーマにしたPENフォーラムがありました。
 地震津波旱魃、台風、噴火などの災害を、文学、映画,アート、音楽、演劇などで表現したもので、呼び物の一つに、井上ひさし作の朗読劇「リトル・ボーイ、ビッグ・タイフーン」がありました。
 リトル・ボーイは広島に投下された原爆で、アメリカ俗語では、おチンチンのことです。ビッグ・タイフーンは同年九月十七日の枕崎台風のことで、枕崎よりも広島のほうが被害が大きかったのは、原爆で防備ゼロになっていたからです。
 このシナリオは、のちに「少年口伝隊一九四五」と改題されますが、井上氏は二〇一〇年四月九日に逝去。上演の許可はとってあったので、私たちは、七月三日と四日に広島で公演しました。天災・人災複合の悲劇という点では、今回の福島の悲劇とイメージが重なります。
 その年の九月二十三日から三十日まで、国際ペン東京大会が、早稲田大学大隈講堂等で開催されました。このときの基調公演も井上ひさし作の群読劇「水の手紙」で、出演者たちが環境問題などについて、山形県で暮らす人たちに語りかけるスタイルになっています。これまた今回の大震災へと、想いが巡って行くのです。
 震災で被害を受けられた方々は、現在を生きることで精一杯だとは思いますが、苦難を乗り越え、かつての広島がそうであったように、災害から文化を創造して頂きたいのです。
 原発の功罪などについても考えながら、つい余計なことを書いてしまいました。


時空外彷徨 第二六号 二〇一一年四月一〇日




★「時空外彷徨」第25号は、こちらをご覧下さい。
http://d.hatena.ne.jp/sinseinen/20091012