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第23号

                                             天瀬裕康

今日泊亜蘭幻視

 五月十二日の訃報に接し、なんだかモドカシく、少しイライラした気持ちになった。
 あの人と文通した、いくらかの思い出がある。
 私が瀬戸内海SF同好会を作り、ファンジン「イマジニア」を創刊したのは昭和四十二(一九六七)年六月だったが、プロダムからの批評の御礼(第二号)や年賀状への御礼(第三号)の中に今日泊亜蘭の名前が見られたのだ。
 また、私が日本SFファングループ連合会議から「イマジニア」創設に対し表彰状とバッジ(いわゆるSFファンダム賞)を頂いたのは昭和四十四(一九六九)年八月二十四日だったから、その頃に違いないのだが、はっきりしない。
 もちろん、まだ渡辺晋の本名を使っていた頃で、広島市府中町東洋工業(現・マツダ)の付属病院に勤務していた時代のことである。
 その後、昭和五十七(一九八二)年七月に大竹市の現在地で開業したのだが、転居のさい発作的に、
過去に繋がりのある手紙に写真、ヴァイオリンから弓道の弓、その他諸々を処分してきたのである。
 それでも「SFマガジン」の二五五号(一九七九年十二月)までと「宇宙塵」の一部、『世界SF全集』(早川書房)あたりは難を逃れて大竹に移ったのだが、今日泊亜蘭先生からのお便りなど、残っていそうな気配もない。
 ところが、遠い昔のこと……と忘れかけていたら、二葉の葉書が出てきたのである。


  葉書と追想
 葉書を探し出したのは家内の渡辺玲子だった。
一葉は暑中見舞いの返事で、もう一葉は年賀状だから、応答用名簿資料にでも収めていたのだろう。
 どちらも「大竹市渡邊醫院」宛で「辺」も「医」も旧い難しい字が書いてある。
 一九八五年の暑中見舞は七月二〇日とスタンプもはっきり出ているし、アドレスも杉並区久我山三―九―三とはっきり読めるのだが、年賀状の方は、いささか明白さに欠けている。
 日付の中に「8」の字がなんとか読めるし、年賀状の絵柄が龍だから、一九八八年だろう。奇妙なのは、アドレスは小金井市前原町五丁目八番九号なのに、所沢局のスタンプが押してあり、「旧臘転居しました。御帳末ニお控下さい」と書いてあるのだ。
 この件はあとで検討するとして、最初に思っていたのよりは長い間、文通は続いていたらしい。
 そういえば、今日泊亜蘭の「刈り得ざる種」が「宇宙塵」の一九六一年一〇月から六回連載され、単行本の『光の塔』となったのが翌年の八月である。
 それを「イマジニア」の「SFマクロバイオティクス」(わたなべ・しん)が取り上げたのは、第5号(一九六九年五月)で、「SFマガジン」の「空想不死術入門」(渡辺晋)では第7章(一九七一年 月)だった。この頃、「イマジニア」は少し硬いな、といったふうな批評を頂いたような記憶がある。
 とはいえ文通だけだから、たいしたことはない。おめがクラブの渡辺啓助は別格としても、近くで育った渡辺東さんは今日泊亜蘭を知る人の中に入るだろうし、最晩年のインタビューに成功した『新青年』研究会の皆さんも、鼻を高くしてよいだろう。
 SF界で今日泊さんと親交のあったのは、故・矢野徹氏を除けば、柴野拓美さんや野田昌宏さんだったが、その野田さんも六月六日に亡くなられたから、最近の研究者の中に求めれば、日下三蔵氏といったところだろうか。


  純文学系とSFと
 そこで『塵も積もれば 宇宙塵40年史』(平成九年十一月、出版芸術社)における柴野さんの言葉を見ると、今日泊亜蘭は同人誌「文芸首都」に〈幻想的な作品を発表して、高い評価を得ていた〉との一文がある。
 SFやミステリーなら、勤務医時代にラジオ中国の「紀伊国屋ラジオ・ライブラリー」で解説をしていたことがあるので、ある程度の知識はあるのだが、純文学系の同人誌はそれほど詳しくない。
 そこで渡辺玲子に訊いてみると、「文芸首都」主宰・保高徳蔵夫人の保高みさ子さんが、その同人誌のことを小説にしている、と言う。
 さっそく『花実の森―小説文芸首都』(昭和四十六年六月、立風書房)を読んでみると、この同人誌三十八年の歴史の中には、今日泊亜蘭自身は出てこないが、茨城県古河市疎開中から同人になっており、別のペンネームで作品を出していたらしい。ここらは、あとでまた述べるが、仲のよくなかった福島正美氏を除けば、いろんな人の本に今日泊亜蘭を主体として、多くのペンネームで登場する。
 すなわち野田昌宏スペース・オペラの書き方』(一九八八年十月、早川書房)、石川喬司『SFの時代』(一九七七年十一月、奇想天外社)、横田順弥『日本SFこてん古典』(昭和五十六年四月、早川書房)など、その数は少なくない。 
 日下三蔵は〈ふしぎ文学館〉の『まぼろし綺譚』(平成十五年七月、出版芸術社)を編んだ功績が大きい。「SFマガジン」(二〇〇一年六月)には、日下三蔵監修の「日本SF全集」第一期・普及版・第十巻「今日泊亜蘭」が載っている。(ちなみに、この号の一八一頁には、天瀬裕康の「海野十三」の講演予告、「問合先・小西昌幸」も出ている)
 日下の著述は、のちに『日本SF全集・總解説』(二〇〇七年十一月、早川書房)となって、より詳しく読むことができる。
   
  父親や経歴のこと
 要するに今日泊亜蘭(本名・水島行衞)は傑物で、中学時代には「啓」と名乗っていたが、その父親・水島爾保布も、並の人間ではなかった。長男の名「行衞」も普通の「衛」ではない。
 父・爾保布は画家にしてエッセイスト、武林無想庵辻潤長谷川如是閑佐藤春夫などを友とする特異な文化人だが、祖父もまた変った人だった。
 八人の子供の名前が爾保布(長男)から始まり、佐久良(男)、雲松(女)、獅子吼(男)、香須美(男)、琴柱(女)、潮音(男)、百千(男)と続くのだから普通ではないか、爾保布に子供が生まれたときには「太郎と呼べ」と命じたという。
 これは峯島正行著『評伝・SFの先駆者 今日泊亜蘭』(平成十三年十月、青蛙房)からの引用なのだが、この話を聞いた渡辺玲子は、「爾保布さんなら『赤い鳥』へも沢山書いてらっしゃる」と呟く。
 その頃、彼女は企画展「『赤い鳥』からの贈りもの」での講演の準備で、大正中期以後の文人を調べまくっていたら目に入った、と言う。文と絵を併せて、三十六件ほどあるらしい。
 負けてはならじと雑誌「新青年」を調べると、大正十二年十月(大震災記念)号に漫文漫画を書いているが、ここらは私より詳しい人が多いだろう。
 爾保布はともかく亜蘭にしても、「読売新聞」の日曜版に連載した子供向けSFがあるそうだし、純文学系の同人誌とか詩誌にも、まだ発掘の余地があるのではあるまいか。
 詩誌「暦程」は草野心平を中心にした非定型・自由律詩のグループだが、宇良島多浪名義の叙事詩や、水島太郎の名での論説もあるようだ。
 戦後、復刊した「文芸日本」に佐藤春夫の紹介で入会し、同人の格となり、水島多楼のペンネームで執筆して直木賞候補になった「河太郎帰化」は、前述の『まぼろし綺譚』に収録された。
 同人誌「文芸首都」には璃昴のペンネームで「宝の山」を載せたそうだが、シラミツブシに調べれば、面白いネタが見付かるだろう。「宝石」の「夜走曲」は今日泊蘭二だが、園児、志摩滄浪、紀尾泊世央などの筆名にも気をつけて、掘り起こしを続けていただければ幸いである。
 さて、初めに出てきた渡邊醫院宛の葉書だが、住所が小金井なのに所沢局のスタンプが押してある点は、峯島の『評伝・今日泊亜蘭』(前掲書)の二一五頁あたりを読むと、なんとなく分かったような気がしてくる。
 なお峯島正行は、広島出身の梶山季之とも親交があったが、これは別の機会に譲ろう。

 (2008年6月10日)


★「時空外彷徨」第22号は、こちらをご覧下さい。
http://d.hatena.ne.jp/sinseinen/20080601