Pub Antiquarian 『新青年』研究会のブログ

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第20号

                                                       天瀬裕康 
乾信一郎の足跡を求めて

 温知館尋訪 
 私が熊本市出水二丁目の愛称・温知館こと熊本県立図書館・熊本近代文学館を訪れたのは、二〇〇六年九月二十三日(土)の秋分の日であった。
図書館と文学館は、入り口は別々だが中は通じている。あらかじめ目的を述べてお願いしておいたので、きわめて好意的に接して頂けたのであった。(このとき以来、参事の馬場純二氏と杉本主任にはいろいろお世話になっている)
 その目的とは、もちろん乾研究だが時間が限られているので、専らラジオ・ドラマのシナリオ調査、それも「コロの物語」に絞り、これに年譜の調査を加える程度にしたのだった。
 ラジオ・ドラマとして有名なものには「青いノート」もあるが、「コロの物語」に焦点を当てたのは、第一八号で述べた連載小説「犬のボク物語」の主人公が「コロ」という小犬だったからである。
 

 「コロの物語」と年譜探し 
 このドラマは、昭和三十二年四月一日(月)から三十三年十二月三十日(火)まで、月曜から金曜まで計四百七十九回、NHKラヂオ第一放送で、初めは午前十時十五分から三十分まで、のちには午後五時半から六時まで放送されている。
 ドラマの舞台は戦後しばらくしてからの東京で、廃品回収業のおじさんが、道で迷子の子犬と出会い、コロという名を付けて育てることになる。だが、ある日、おじさんは病気で倒れてしまう。看病するには、なんとも無力なコロ。近所の野良犬やボス犬との付き合いも交えて、話は進む……。
 図書館でのもう一つの大きな目的は、年譜作成のための底本を探すことだった。それで、乾の作品集やアンソロジーの類を漁ってみたのだが、幸い、同館での企画展「乾信一郎 猫と青春 展」の図録・解説書を頂いたので、たいへん参考になった。


 菊陽図書館という宝庫
 その日の午後は、熊本市の西北にある菊池郡菊陽町(きくよーまち)の菊陽町図書館を訪れた。
 ここの少女雑誌収集は全国的に有名だが、それは現在担当者となっておられる村崎修三氏が私財を擲って尽力されたものなのである。
 当日は、被爆による白血病のため千羽鶴を折りながら死んだ少女・佐々木禎子の企画展の最中だったが、予めお願いしておいたので、『青空』はじめ諸資料を手際よく出して下さった。
 本紙の第一九号で未掲載だった一九四八年の『青空』一〇月号における「絵のない額ぶち」(絵・蕗谷虹児)が見付かったのも収穫であった。
 粗筋は――古道具屋にある額縁を、舟木文江は欲しがっていた。やっと手に入れて持ち帰り、壁にかける。中に入れる絵は父親の友だちに頼むことになるが、その画家はキャンバスでなく壁に描いてしまう。そのうちに父親の転勤のため、引越しすることになるが、額ぶちと絵は残して行く。
 この作品が発表されたのは、戦前からあった『少女の友』(実業之日本社)や『少女クラブ』(大日本雄弁会講談社)などが復刊の動きを示し、創刊も相次いでいた時代のことである。
 すなわち、『それいゆ』(一九四六年、それいゆ社)、『ひまわり』(一九四七年、ひまわり社)、『少女世界』(一九四九年、富国出版社)、『女学生の友』(一九五〇年、小学館)などである。この中、『青空』の最大のライバルは『それいゆ』だったが、乾作品が載ったものを列記しておこう。
 『少女の友』
 一九四五年一二月号「めぐる物語」(これだけは伸一郎になっている)絵・河目悌二
   四六年三月号〜九月号「人間復興」一〜六話、絵・河目悌二
   四八年一一月号「誰も気がつかない」絵・川原久仁於
   五〇年六月号「タンテイさん」絵・松下井知夫
 『令女界』
 一九四六年八月号「同じ心」絵・宮崎辰親
   四六年一一月号「手織木綿のことば」画家不詳
   四七年九月号「いんぎん無礼」挿絵なし
 『紺青』
 一九四八年三月号「野本宝石店の客」絵・三芳悌吉
 『少女クラブ』
 一九四九年一月号「大笑い小笑い」挿絵なし
   四九年八月号「知らない知人」絵・津田穣
   五〇年九月号「うれしい仲間」絵・津田穣
 『少女』
 一九五〇年一〇月号「デタラメ第一号」絵・武田祷美
 『女学生の友』
 一九五一年五月号「口笛と銀時計」絵・小川哲男
 (戦前の『新女苑』などもあったが略す) 
 その五日後、九月二十八日の夜十一時から、BSハイビジョン「熱中時代」の「昭和の大ブーム」において、村崎氏の少女雑誌コーナーが取り上げられ放映されたことも付記しておきたい。


 温知館再訪
 水前寺公園近くの熊本県立図書館を再訪したのは、十一月八日(水曜日)の午後である。今回の主な目的は、初期の傑作「敬天寮の君子たち」のいろんな版を見ることだった。
 今回も杉本氏には大変お世話になったが、現代ユーモア文学全集(駿河台書房)の『乾信一郎』はじめ、九州学院高等学校版や文学碑建造記念版などを見ることができたが、さて「敬天寮の君子たち」とは、どんな小説か?
一口に言えば、それは自伝的でユーモラスな、硬派の青春文学で、戦前の代表作なのである。そこでまた忙しくなってくるのだった。


 二つの高校
 十一月九日の午前中に訪れたのは、あの小説のモデルで乾(上塚貞雄)の出身校である九州学院高校(当時は中学校で、貞雄は九回生)だ。
 土地の人は親しみを込め「キューガク」と呼ぶが、教頭の松村緑郎先生が案内して下さった。キリスト教系の学校は日本に二百あまりあるが、ルーテル系は五校しかない由。広い構内の当時の建物の多くは壊され建て直されているが、遠くに教会の十字架が聳えて見える。運動場では、運動部の部員が腰を下ろし、一休みしているところだった。
 午後は国府(こくぶ)二丁目の熊本国府高校を訪れ、情報教育部主任の成田廉司先生にお会いした。
 じつは私が乾信一郎の文学碑のことを知ったのは、この学校のパソコン同好会が出しているホームページの記事を見てからだったのだ。
 そうしたことを話していたら、文学碑を建立された上塚尚孝氏は、成田先生の先輩に当たる教育者だ、ということなのである。
 その上塚氏についても、インターネットで調べて行ったのだが、それによると石匠館という「石橋と石工の資料館」の館長さんと出ていた。それで建築関係の人かと思っていたのだが、ここでより正確な予備知識ができたのだった。


 文学碑とその周辺
 乾信一郎文学碑のある、熊本市の南方、下益城郡城南町赤目の上塚尚孝氏邸を訪れたのは、一日おいた十一日(土)の午前だった。
 その日は早朝から雨で、途中まで迎えに出て下さった上塚氏には、最初から大変ご迷惑をおかけしたのだが、雨が小止みになったときに碑のほうに案内して頂いた。
 それは許可なしでも見られるように外庭に建立されており、石碑全体の体積は、私がこれまでに見た中では最大で、そこに例の「敬天寮の君子たち」の一節が彫り込んであるのだ。
 また近くには、碑文中に出てくる水神様とか、乾信一郎縁のものがあり、大変参考になった。
 そして座敷では、写真など資料を見ながら、関連のお話を拝聴し、ますます乾信一郎という作家への興味が増してくるのを感じるのであった。


(2006年12月5日)





★「時空外彷徨」第19号は、こちらをご覧下さい。
http://d.hatena.ne.jp/sinseinen/20061009