Pub Antiquarian 『新青年』研究会のブログ

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文学における〈発明〉表象

・小松 史生子さんが、11月12日に行われる2022年度昭和文学会秋季大会の特集討議で、ディスカッサントを担当されます。

 

2022(令和4)年度 昭和文学会 秋季大会

日時 11月12日(土) 13:00~17:00

対面会場 法政大学 市ヶ谷キャンパス 富士見ゲート棟G201教室
(〒102-0071 東京都千代田区富士見2丁目17-1)

オンライン 「ZOOMウェビナー」による中継。リモート参加には事前登録が必要です。

※大会概要、アクセスなどはこちらを、オンラインでの事前登録についてはこちらをご参照ください。

 

特集 文学における〈発明〉表象 
 

開会の辞 

 中丸 宣明(法政大学文学部日本文学科教授 会場校) 

 

【講演】 
 今日の文学における「私小説」の全面化(?)をめぐって  佐々木 敦 

 

【研究発表】 
 誘惑する発明家──海野十三の探偵/科学/軍事小説──   加藤 夢三

 

 発明と禁止──戦後日本のロボット表象──          山田 夏樹 

 

  ※司会 久村 亮介山路 敦史 

 

【討議】 
 ディスカッサント 小松 史生子 

  ※司会 嶋田 直哉 

 

閉会の辞 

 佐藤 秀明(代表幹事)

 

【企画趣旨】  
 本特集企画では、文学作品におけるさまざまな〈発明〉の表象に焦点を当てる。まだ存在しないものを新規に作り出す文学の〈発明〉力を作家・作品の独自性として単純に称えるのではなく、私たちの日常に侵入する〈発明〉が、文学・フィクションの観点からとらえ直され、既成の社会的な思考の枠組みによって、〈発明〉が物語化される様相に迫りたい。
  たとえば高浜虚子「丸の内」は、人や貨物を運搬する装置としてのエレベーターを、見物したり、恐々踏み入れた足駄を注意されたりする人たち、つまり昇降のために利用できない人々の姿を描いている(『大東京繁昌記』)。〈発明〉が固定化される以前、すなわち新しいモノとしての異物が日常に定着する以前に存在していたであろう様々な余剰性、潜在的な可能性を文学によって呼び覚ますことは、〈発明〉それ自体にとどまらず私たちの日常を捉え直す契機にもなるだろう。 
 私たちの日常は様々なモノに取り囲まれている。私たちはそれらのモノを道具として使いこなし、あるいはそれらを使わざるを得ない形で振り回されるようにして、日常生活を送っている。最新技術の名の下に生み出され、生活空間に侵入してくる〈発明〉は、たとえば「新商品」として受容されて流通し、消費される。「新商品」は、やがては多くの類似品が生み出され、「既製品」となる。 
 文学などのフィクションは、しばしばこうした〈発明〉の侵入と馴致の様相を描いてきた。チャペック『R.U.R』、ハクスリー『すばらしい新世界』、オーウェル『1984年』をはじめ、佐藤春夫『のんしやらん記録』、村田沙耶香『消滅世界』、中村文則『R帝国』などのように、新しいモノとの遭遇が日常にもたらす軋みや、人間が〈発明〉を飼い慣らすことの困難さに由来する漠然とした不安を、危険性や脅威としていささか極端に際立たせる形で物語的に解消しようと、オカルト的に表象したり、SF的なディストピアとして表象したりする例が挙げられる。 
 また、『本好きの下剋上』『魔導具師ダリヤはうつむかない』など、現在インターネット小説で中心的な位置を占める作品群は、ファンタジー世界に前世の記憶を残したまま転生した現代人が、現代知識に依存した〈再発明〉を繰り返し、下剋上を果たしたりスローライフを満喫したりする。これらの作品は、〈再発明〉に過ぎない行為を新規性のある〈発明〉とするための世界観によって支えられており、そのために今ここの世界とは異なる〈異世界〉が必要とされる。要するに、これらの作品群のなかでの〈発明〉あるいは〈発見〉という概念は、事物や原理を初めて見出し作り出したりする行為を指すのではない。既成のモノの複製に過ぎないものを〈発明〉と位置付けることが意図されているのだ。
 このようなインターネット小説の状況は、単にそれらの作り手や作品の想像力(創造力)の枯渇を意味するとは言い切れない。そもそも私たちは、新たに〈発明〉されたモノの日常への侵入を受け入れ、それらを飼い慣らし、効果的・効率的に使用(運用)するために、既成の概念によってそれらを受け止めようと試みる。初見では使用が困難に見えるモノには、既存の表現や形式で記述されたマニュアルが用意され、使い方を学んでいく。新しいモノを新しく生み出す〈発明〉なる行為は、それ以前から存在するモノや発想との類縁性や差異性によって測られる相対的な尺度に支えられているのであり、人間の思考を取り巻くコンテクストに依存している。すなわち、〈新しい発明〉は、人間の思考の外からやってくるものではなく、既成の思考の枠内で把握された新しさに過ぎない。また先に挙げたようなインターネット小説では、〈発明〉を支えるのがそのモノの新規性にあるのではなく、人間の思考を形づくるコンテクストに依存していることを極端な形で利用したものとして捉えることができる。〈発明〉がフィクションであるなら、オカルトやSFといったジャンルを問わず、〈発明〉を描いてきた作品群はすべて同じ〈発明〉という物語、あるいは〈発明〉を物語化して、享受する人間の営みとして把握できる。 
 フィクションにおいて、〈発明〉はいかにして〈発明〉として定位されるのか。本企画では、モノが新しく〈発明〉として表象される瞬間、すなわちあるモノが新規性のイメージを帯びている瞬間へと立ち返り、それらが〈発明〉として物語化され、享受されるまでの過程に分析的に介入してみたい。そこから、私たちの日常生活を規制している思考の型をゆさぶり、捉え直すこともできるのではないだろうか。

 

※昭和文学会のHPも、ご覧下さい。

swbg.org